今回は、僕の大好きな“不死身の分隊長 舩坂弘”についてお話しようと思います。
舩坂弘の一生
舩坂弘は1920年に生まれて2006年に死亡しました。小学校を終え陸軍に入った舩坂はグレネードランチャー部隊の分隊長となります。
そして第2次世界大戦の状況が悪化。舩坂が率いるグレネードランチャー部隊はパラオのアンガール島に派遣されることになったのです。その時代は、まだ、日本の領土でありました。その島がアメリカに落とされると本土が爆撃機の射程に入ります。
アンガウル島での活躍
舩坂はお国のために死守しなければなりませんでした。舩坂が率いるグレネードランチャー部隊は1200人程で敵軍はおよそ二万程でした。こんな状況でも舩坂はグレネードランチャー、臼砲を打ち続け一人で千人を倒しました。
その分隊長の活躍は仲間たちの士気アップに繋がったのでした。ちなみに、臼砲とはきゅうほうと読み、高い所から塀の向こう側に落とす弾道をとる小さい爆弾です。
不死身かつ強運の持ち主
そして、舩坂は、戦闘開始から3日目に脚に深い傷を食らったのです。軍医が来たが傷が深すぎて自決用のライフルを置いたのです。だが翌日舩坂は歩けるまでに回復していた。傷が治りやすいそうです。今度は迫撃砲の破片によって大けがをしました。
そして、重要な施設が破壊され危機に陥りました。何よりも食べ物がありませんでした。
水もないので近くの海へ行くが敵兵に発見されて集中砲火を受け腹部を撃たれてしまいます。さすがの舩坂でも慢性的な食べ物の不足により傷の治りが遅かったです。
舩坂は、「これまでか」と自決用の手榴弾(しゅりゅうだん)に手をかけます、、、しかし、不発だったのです。ならばと手榴弾(しゅりゅうだん)を巻き付け自爆を決意しました。
そして、一万人のアメリカ兵がいる陣地に潜入できました。米国司令部まできました。しかし見つかり首を撃たれてしまいました。だが、なんと生きていたのです。アメリカ軍の病院に運ばれ、情けをかけられたと思い怒りました。
回復後、舩坂は暴れ初めました。その後、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に移されます。移される前からアメリカ兵の間で有名だったらしいです。
アメリカ兵A「なんかやべーのいるんだって」アメリカ兵B「気をつけろ」アメリカ兵c「いや瀕死(ひんし)らしいの。監視3人もいらんでしょ」アメリカ兵B「非常に危ない男だ注意しておけ」動けないと思われたが2日目、飛行場の爆破を決意。まさかそんなこと誰が考えられただろうか。
収容所の舩坂
舩坂は収容所を抜け出し火薬を集め弾薬庫を爆破したのです。その後、飛行場を爆破しようとしたがクレンショー伍長に阻止されました。クレンショー伍長は敵であっても殺生を嫌い、通訳になろうと日本語を覚えたのです。
さすがの舩坂でもクレンショー伍長に敵わなかったです。その後も脱走をしようとしました。しかし、クレンショー伍長にことごとく捕まってしまうのです。その後各地の収容所を転々とし昭和21年に帰国しました。その勇気をたたえ不死身の分隊長と呼ばれました。
帰国した舩坂
昭和19年、舩坂の実家では戦死届けが来ていたのです。舩坂は、戦死したと思われていたのです。ボロボロの軍衣をまとい帰国した舩坂は幽霊だと思われたそうです。
その後
戦後、舩坂は、渋谷に書店を開きました。それが大盛堂書店です。
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